働くと罰金が課せられる制度の方が不正である。
2011年02月19日16:45

>(現行の生活保護制度では)受給者は報酬や年金などの収入があれば申告しなければならず、収入に見合った金額が受給費から差し引かれる。

働くと罰金(減額や支給停止)が課せられる制度の方が不正である。

働くことによって罰金(減額や支給停止)が課せられない制度、働けば儲かる制度《ベーシック・インカム》を推進しよう。

参考:
http://mixi.jp/view_community.pl?id=309137
ベーシック・インカム(BI・基本所得)のコミュ。

===

グリーン・スー2011年02月19日 16:59
ニュースから

ベーシックインカムを実現するには、
若年労働家庭で生活保護が無いレベルへ生活保護を一度下げるか?
逆に、生活保護が無い若年労働家庭へ生活保護レベルの収入補填するか?
 どちらかをしないと・・・

「働くほど損をする」というお話しの課題が矛盾を起こすと思います。
不正に給与をもらっている若年労働家庭はほぼ存在しないし
不正受給の陰に隠れた特定支給も有りますよね?

 そこを総合的に見ないと判断を間違えると思います。

>『最低限度の生活』とは何かを国民的に議論することが必要

は、基本的に正しいという認識です。
 これに年金生活者も含めないと、また別の弊害が出ると思います。

政府の原資は結局は民間から吸い上げている訳ですから、そこの原資を拡大する方法も課題でしょう。

個人的には日本のGDPを最低でも実質で2倍にし、その税収で『最低限度の生活』をサポート出来る体制を将来に向けて構築する
 というのが唯一の回答と考えています。
 当面のパイの取り合いをすると、将来には破綻する危険性が高い認識。
 種モミを食ってしまう・・・ と言う感じでしょうかね?

若年労働家庭の月収が最低でも20万円/月にするのが第一の希望です。
 <現状では 月額17万5170円 以下が数割有ると想定します
  年金生活者は、この半分以下が相当居ると思いますが次の課題。

===

たけ(tk)2011年02月19日 22:31

レスポンスありがとうございます。

>若年労働家庭の月収が最低でも20万円/月にするのが第一の希望です。
> <現状では 月額17万5170円 以下が数割有ると想定します

働いて生活できる稼ぎがあることが、一番望ましいですね。

しかし、生産性向上のパラドックスというのがある。
生産性が上がると、例えば100人の村で10人が働けば十分な必需品を作れて分配でできるようになる。そうすると、残りの90人が失業して、カネがなくなって、10人が効率的に作ったモノを買えるヒトが、その10人以外には、居なくなってしまう、というパラドックスです。

しょうがないので、贅沢品を作ったり、娯楽とか文化的な活動で無理やり「仕事」を作って「収入」という形で分配することになる。しかし、それにも限界がある。

従って、《ベーシック・インカム》で強制的にカネを配らないと経済が回らなくなる。という段階にあると思う訳です。

>  年金生活者は、この半分以下が相当居ると思いますが次の課題。

年金生活者にも《ベーシック・インカム》を配れば、若いときに準備した老人は比較的に裕福になり、若いときに準備していなければ、相対的に貧しい老後になる。が、年金を掛けていても掛けていなくても、最低限度の生存は確保できるようになる。

そうすると、若い人にとっても、老後の「不安」に苛まれることがなくなるので、安心して必要な消費を拡大できるようになる。

>個人的には日本のGDPを最低でも実質で2倍にし、その税収で『最低限度の生活』をサポート出来る体制を将来に向けて構築する
> というのが唯一の回答と考えています。

問題は、全体的なパイの大きさではなく、所得格差や無収入の問題なんですよね。

> 当面のパイの取り合いをすると、将来には破綻する危険性が高い認識。
> 種モミを食ってしまう・・・ と言う感じでしょうかね?

種モミというのは生産に必要な資金ということですね。これは確保しておく必要があります。((現状の投資家たちのカネ余りは、偏りすぎだと思いますが・・))

たけ(tk)は《消費税型ベーシック・インカム》を考えております。人びとが「消費」にかける資金の一部分を《定率》で出資してもらい、それをそのまま《定額》で全員に還付する、という仕組みを考えております。これだと、一人あたり毎月16万円以上の消費をする階層のヒトは負担が増えるが、それ以下の消費しかしていない階層のヒトは差引きプラスになる、という仕組みです。

この仕組みだと種モミ(生産活動に必要な資金)を食ってしまうということにはならないと考えています。

また、パイの食い合いではなく、消費資金の再分配に過ぎないので、人びとが消費をするかぎりは破綻しないであろうと考えています。

>政府の原資は結局は民間から吸い上げている訳ですから、そこの原資を拡大する方法も課題でしょう。

また、《消費税型ベーシック・インカム》であれば、政府の資金からは完全に分離することが可能になり、分離しなければならないと考えています。

>>『最低限度の生活』とは何かを国民的に議論することが必要
>は、基本的に正しいという認識です。
> これに年金生活者も含めないと、また別の弊害が出ると思います。

ベーシック・インカム》が実現して、それが「最低限度の生活」を保障できる程度の金額になった場合には、年金制度は民間に移管してしまっても構わないと思います。最低限度の生活は《ベーシック・インカム》で確保して、年金はプラスアルファの余裕を欲する人たちが、任意に積み立てればよいようになるからです。

>不正受給の陰に隠れた特定支給も有りますよね?

すみません。これは何でしょうか?

>不正に給与をもらっている若年労働家庭はほぼ存在しないし

これも、よくわかりません。何でしょうか?

ベーシックインカムを実現するには、
>若年労働家庭で生活保護が無いレベルへ生活保護を一度下げるか?
>逆に、生活保護が無い若年労働家庭へ生活保護レベルの収入補填するか?
> どちらかをしないと・・・
>「働くほど損をする」というお話しの課題が矛盾を起こすと思います。

ベーシック・インカム》を実現するというのは若年労働家庭にも無条件に《ベーシック・インカム》を支給すると言うことなので、現行の生活保護のレベルを下げるということは必要ないと思います。

もちろん、現行の生活保護世帯に対する支給金は、《ベーシック・インカム》支給額に相当する額は減額されることになると思います。《ベーシック・インカム》が実現した後の生活保護制度は、《ベーシック・インカム》+生活保護給付金で「最低限度の生活」を保障するという制度ということになりますから。

橋本努さんの疑問への回答

掲示板(http://www.asyura2.com/11/senkyo105/msg/879.html)でこのブログを批判せよとのお題があったのでやってみました。

http://synodos.livedoor.biz/archives/1479734.html
2010/8/40:0
ベーシック・インカム論(2) 橋本努
2.基本所得論の実効的な困難

==

10. tk 2011年1月30日 20:25:23: fNs.vR2niMp1. : ymsOJT0HkM

>最もラディカルな基本所得論の立場(左派リバタリアニズム)からすれば、基本所得は、教育・福祉・医療のあらゆる政策に代替するものでなければならず、政府は基本所得の導入と同時に、これらの分野からすべて手を引かなければならない。

これはナンセンスな議論だろう。
たとえ「基本所得」と称しても、現行の社会保障(健康な文化的な最低限度の生活を可能にする金額)に満たない金額の支給であれば「基本所得」とは言えない。

現行の社会保障に等しいか、それを超える額の基本所得が支給されるまでは現行の社会保障を廃止することはできない。
現行の保障を超える額になって始めて、基本的な社会保障生活保護)にかかる行政コストが削減できるようになる。

それだけの関係である。

ベーシック・インカム》を低額から始めて、「もうちょっと増やせば行政コストが削減できるようになるのだよ」と説得するための材料にすべき話題である。

−−−

>移民労働者にはどのように対応すべきであろうか。資本所得を支給されない移民に対して、最低賃金法を適用すべきだとすれば、企業は積極的に移民を雇わないのではないか。すると移民は、技術労働者を含めて、日本では労働の機会を奪われることになるかもしれない。

日本の国益から判断して、日本で働いてほしい外国人労働者には、つまり、正当な労働ビザを持っている外国人労働者には支給すればよい。

不法就労者に支給しなければ、不法就労を半減させることになるだろう。

就労ビザの発給要件についての議論、つまり、どうしてもその産業に外国人労働者が必要であるかどうかは、政治的な議論を通して変えていけばよい。

基本的には、日本人で可能な労働であれば、日本人が働いたほうがよい。
3Kなどの日本人労働者が働きたがらない職種であれば、賃金を上げて、短時間労働にする、労働環境を改善する、等々の方策を採るのが筋である。

−−−

>実効的には、基本所得の導入は段階的になさねばならず、しかもそれは、一部の教育・福祉・医療政策を代替する程度に留まる可能性が高いだろう。

賛成。段階的に始めて、現行の制度が不要になるほどに支給額が多くなれば、不要になった現行制度の行政コストの削減が可能になる。

−−−

>検討すべきは、基本所得の理念を、どんな政策によって実現するのか、という問題である。雑誌『週刊金曜日』(2009年3月6日号、14-17頁)が各政党に行なったアンケートによると、現在、基本所得の導入を求める政党は、新党日本の一党のみであり、これに近い政策を提唱しているのは、社会民主党である。

社会民主党は、基本所得的な政策として、消費税額戻し金(飲食料品にかかる消費税分を返金する制度)、低所得者への給付つき税額控除、公契約法・公契約条例による生活賃金保障、児童信託基金制度、すべての子供の生活保障、高齢者の最低生活保障、新たな就労・生活支援制度、などの政策を打ち出している。

>これらの政策は、既存の政策を前提とした追加的政策であり、大きな政策変更を伴わない点では実効的であるともいえる。しかし社会民主党が提案するように、基本所得を既成の諸制度の拡充というかたちで実現する場合には、行政コストの削減を期待することはできない。

「行政コストの削減」につながるかどうかは、金額次第である。生活保護の基準はを超える支給金額になれば、生活保護の行政コストは削減できる。

−−−

>また基本所得の中核的な倫理観、すなわち「働かざる者も、食うべし」という倫理を実現することもできない。社会民主党的な政策パッケージにおいては、働く能力のある人は、やはり働かねばならない。

働く能力があり、働く場所がある人は、働いたほうがよいのである。「働かざる者も、食うべし」という倫理は「働く者、食うべからず」ではない。働いてカネを稼いだ者は、働かない者よりも豊かになるのは当然の権利であろう。

* 働いてもカネを稼げない人(ボランティアや無償で働く人)はその人の判断で、その働きにカネ以外の価値を見いだして働くのであろうから、それは、そのヒトの自由である。《ベーシック・インカム》があれば、カネ以外の価値のために働く人は生きていけるが、《ベーシック・インカム》がなければ生きていけないだろう。

−−−

社会民主党的な発想に立たずに、一律の基本所得の大胆な導入によって、他の諸政策を代替することはできるだろうか。私たちは、働かざる者にも基本所得を与えるという政策を実行できるだろうか。例えばすべての国民に対して、毎月一万円の給付からはじめて、毎月十数万円程度の給付を目指すような段階的政策の導入は、実効的であろうか。

基本所得によって「すべての社会保障」が無くなるわけではない。人によっては、一律の基本所得では不十分なのである。障害者や病人は生活にかかるコストが高いのであるから、特別な保護が必要にならざるをえない。従って、そのような、生存コストの高い人に対する保障は、基本所得とは別の制度として残らざるをえない。残すべきである。

−−−

>問題となるのは、その経済的帰結であろう。基本所得を主張する第一人者のヴァン・パリースは、基本所得の給付によって、政府の持続可能な税収が先細りするようなことがあってはならないと論じている。基本所得は、その体制がもつ潜在生産力(いますぐに使用できる人的労働力の生産性ファイル)が小さくならない限りにおいて、給付されるべきだというのである。

たけ(tk)は、《消費税型のベーシック・インカム》を想定している。《消費税型のベーシック・インカム》とは、消費に対して定率負担、低額給付の《ベーシック・インカム》である。

消費税の税収の総額/支給人口=一人あたりの支給額

となる制度である。

この制度においては、消費税額は政府の一般財源から分離される。消費税納付額(定率負担)→基本所得給付額(定額給付)というように、国民の所得が右から左に循環するだけである。その方式であれば、政府の持続可能な税収に影響することが無い。

政府の一般財源(《ベーシック・インカム》の為の事務経費を含む)は消費税以外の税収からまかなうことになるので、《ベーシック・インカム》の支給額と政府の一般財源のための税収との繋がりは無くなる。《ベーシック・インカム》のための事務経費は、消費税額の総額の計算と、受給者の生存確認と、支給人口の計算と、割り算と、振込だけである。コンピュータを使えばほとんど経費はかからないだろう。

−−−

基本所得は、その体制がもつ潜在生産力(いますぐに使用できる人的労働力の生産性ファイル)が小さくならない限りにおいて、給付されるべきだというのである。

この配慮は必要である。働く者は、働かない者よりも儲かるべきである。それによって、働く者が国民全員が必要とする以上の生産を行うことを奨励するべきである。((現行の生活保護制度や失業保険の制度は、働くことへの罰金を課する不合理な制度である))。

−−−

基本所得の正当性は、その都度の経済状態によって変化する。基本所得は、たとえそれが給付されたとしても、その水準を安定的に維持することは難しいように思われる。

基本所得の正当性」は共同体の維持である。人体が血液を末端にも送って末端の細胞の生存を可能にするのと同様に、《ベーシック・インカム》によって末端の人たちの生存を維持しなければならない。

また、「基本所得の正当性」は生産性の向上が飢餓を生み出しかねないという不条理の解決である。生産性を向上し、生産を拡大して、なおかつ、人びとが餓えないためには《ベーシック・インカム》しかないだろう、というのが《ベーシック・インカム》論である。

従って、「基本所得の正当性は、その都度の経済状態によって変化する」という立論は意味不明である。「働く者、食うべからず」というのが「基本所得の正当性」だと思っているのだろうか。そうだとしたら、もちろん、ナンセンスな妄想の「正当性」である。

−−−

基本所得の水準は、おそらくインフレターゲット政策と類似の困難を抱えている。インフレターゲット論者たちは、政府が毎年k%のインフレ率を達成することを法的に定めるべきだと主張するが、そのような法律は、実際には維持できない可能性が高い。

「政府が毎年k%のインフレ率を達成することを法的に定める」なんて主張はないでしょう。目標を定めるだけでしょ。問題は、デフレ誘導(インフレ対策)の手段、インフレ誘導(デフレ対策)の手段があるかどうか、その手段の有効性やデメリットはどうか、だろう。

インフレ対策=デフレ誘導には各種の方法が開発されている。

デフレ対策には、日銀による1兆円程度の国債の買い付けで2%程度のインフレ誘導ができるだろう。小規模に、徐々に実験して試すべきである。

《消費税型ベーシック・インカム》であれば、支給額と消費税額とはリンクしているので、政策的に決めれば実現することになる。

やってはいけないのは、予め固定した支給額を約束してしまうことである。「本年度の消費税収入の予想/支給人口」で支給を開始しなければならないが、実際の税収との予想税収との差額は翌年度の支給額に影響する、と国民に説明することである。説明は「昨年度の過不足がいくら、本年度の予想税収がいくら、従って本年度の総額はいくら。支給人口は何人。それを割ると一人あたりの支給額はいくらになります」というだけである。これなら、国民にも理解可能ではないだろうか。

なお、国民が消費しなければならない物量(必需品)は、必ず消費されるのであるから、景気によって左右されることはない。金持ちが贅沢品を消費すれば、その額の一定割合が消費税に成るのであるから、定額給付の水準も維持される。

《消費税型ベーシック・インカム》であれば、少なくとも理論的には、消費市場での消費資源の再分配に止まるので、生産活動に大きな影響は与えないはずである。

《消費税型ベーシック・インカム》であれば、極端な変動はないのではないかと思う。

−−−

基本所得政策の場合も同様である。基本所得政策が経済成長と両立すべきだとすれば、毎月どの程度の給付が望ましいのかについて、私たちは財政面、社会的帰結面で、その都度の検討を迫られる。基本所得政策は、なにが「基本」であるかをめぐって、制度的に不確実で不安定な運営を強いられるだろう。

おそらく、この立論は、消費税が消費縮小を招くという論理なのだろう。しかし、《消費性型ベーシック・インカム》であるなら、国民の消費原資の総額は変らないのであるから、消費縮小を招くことはない。むしろ、消費は拡大する。なぜなら、金持ちが贅沢品の消費を差し控える額よりも、貧乏人が消費を拡大する額の方が多くなると思われるからである。

−−−

>それゆえ基本所得は、それが導入された場合にも、労働の倫理観の転換をもたらさない範囲で導入されるにすぎず、

「労働の倫理観の転換」とは何を意味するのか?

まさか、「働く者、食うべからず」への転換じゃないよね?

「カネのためにいやいや働く」のが現状の「労働の倫理観」だと言いたいのか?

人はそれぞれである。「自分の生活を良くするために、カネのためにいやいや働く」人がいてもよいではないか。

基本所得があれば、「カネのためにいやいや働く」という人で最低限の生活で十分という無欲な人は働くのを止めるだろう。欲があるのであれば、「カネのためにいやいや働く」ことを続けるだろう。人はそれぞれである。必ずしも「人たちのために働くことの喜びのために働く」ことを強制する必要はない。

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>行政コストの削減をもたらさない可能性が高い。

これは、金額次第である。(前述)

−−−

>加えて基本所得は、人々の実質的自由を実現するほどの額には至らず、したがって創造資本を増大させる可能性も低いだろう。

「人々の実質的自由を実現するほどの額」とは?
友人の一人に、絵を描くために最低限度の労働をして、最低限度の貧乏生活をしている人間がいる。《ベーシック・インカム》があれば、彼は、最低限度の貧乏生活で絵を描くことに専念することができるようになるだろう。

−−−

>実効的には、農家に対する基本所得の給付と自由貿易協定の締結、あるいは、子供に対する基本所得の給付によって、自由経済制度の整備と少子化の対策に資するような場面での導入が望ましいのではないか。基本所得は、それが対象限定的に給付される場合に、経済利益と人口の増大という国富の理念に適うであろう。

農家の所得保障よりも、自由貿易協定と《ベーシック・インカム》の組み合わせのほうが合理的だろう。農家は、最低限度の生活は保障されるので、農産物が低価格でも利益を産み出すことができるようになるだろう。

所得補償制度では、農家であることの選別はコストがかかることのほかに、農地の賃貸借による大規模化に逆行する不合理も生んでいる。「農家である」という選別が不合理を生み出すのである。

少子化対策でも、年齢制限が無いほうがよい。子供にかかる必要経費は、15歳を超えたら必要なくなるわけではない。18歳でカネがかからなくなるわけではない。22歳で不要になるわけではない。就職できなければ年齢を問わずに必要になる。仮に就職できたら支給しなくなるというのであれば、就職できたときに、罰金がかかるのと同じである。就業意欲を削ぐことはないとしても、制度に対する不公平感や不信感を生み出すだろう。

−−−

基本所得論の初発の関心は、人々が実質的な自由(したいと思うかもしれないことをする自由)を獲得する社会を実現することにあった。けれどもこの政策が実行に移されるとすれば、それは国富増大の目的に資する場合であるかもしれない。

そういう、特定の主義主張に限定されるわけではない。
単なる制度であり、その制度が、各種の視点からの論者にとって、合理的な結果を生み出す、デメリットは少なく、メリットが多い、というだけの制度である。

「国富増大の目的に資する場合」・・国富とはなにか。国富とはその国の人びとに物資やサービスがより多く行き渡ることである。

−−−

>実質的な自由を実現するためには、人々は、すべてを考慮に入れた上で、自身の潜在能力(ケイパビリティ)を最大限に実現することができなければならない。パリースは、この潜在能力の実現を、保障と自己所有と機会という三つの問題に還元して捉え、政策的には「最高水準の基本所得」の給付によって可能になると考えた。

「人たちの実質的な自由」の拡大が、《ベーシック・インカム》を支持するための一つの主張であるという前提で検討することにしよう。

>だがパリースのこの主張は、潜在能力論がもつ含意を決定的に無視している。というのも、A・センに代表される潜在能力論の狙いは、たんなる貨幣給付によっては測ることのできない効用享受の次元、すなわち、財・サービスに対する人々の享受機能(functioning)の差異や滋養を問題にしていたからである。

>人はたとえ一定の所得を与えられても、自身の潜在能力をうまく実現することができないかもしれない。潜在能力の開花=実質的自由の実現は、保障や自己所有や機会には還元されない次元をもっている。それはすなわち、潜在能力の享受機能を発達させる「生成」の次元であり、その生成を促すためには、例えば、規範的価値を討議する空間の洗練化、実践的理性の豊かな行使、ポテンシャルを高める全能感の滋養、といった実践が不可欠であろう。

「潜在能力の開花=実質的自由の実現は、保障や自己所有や機会には還元されない次元をもっている」・・その通り。

「規範的価値を討議する空間の洗練化、実践的理性の豊かな行使、ポテンシャルを高める全能感の滋養、といった実践が不可欠であろう」・・教育の問題ということになりますか・・。これも、必要だと思います。

* 政府に対しては、能力に応じた学習を行う場所を提供する義務を課して、失業者の側に、彼に適する学習の場所が提供されており、かつ、学習する能力があり、かつ、時間があり、にも関わらず、そのヒトがその学習を行わない場合には、つまり、何の正当な理由もなしに提供された学習の場所を利用しない場合には、不支給の制裁を行う制度も面白いとは思う。

>人々の実質的自由とは、潜在能力の十全な開花であり、基本所得の給付だけでは実現されない。それはもっと決め細やかな施策、例えば、子育てサークルへの教育的・経済的支援や、高齢者の社交サークルへの補助金といった政策を必要としているのではないか。

その通り。《ベーシック・インカム》で十分と言うわけではない。

>逆説的ではあるが、基本所得論の背後にある理念、すなわち「実質的自由」を実現するためには、基本所得とは別の施策を検討しなければならない。基本所得の理念である実質的自由と基本所得政策のあいだには、深い溝がある。(初出『生活経済政策』no.154, November, 2009)

逆説的でもなんでもない。《ベーシック・インカム》は実質的自由の必要条件であるが、十分条件ではない、というだけの話である。

106 2010年10月18日 22:50 たけ(tk)

おそらく、

《モノの世界》 → 五感 → 心 → 「心の作用」

という図式が、《外からの視点》での表面的な観察のように見えたのではないでしょうか。

これを《内からの視点》に変換するためには、《実感》ということが重要です。

《実感》には禅定が必要です。

座禅して、《モノの世界》を《実感》すること。
座禅して、五感を《実感》すること。
座禅して、「心の作用」を《実感》すること。

上の図式での「心」は、「心の作用」を生み出す場所でしょう。なので、

座禅して「心の作用」を生み出す場所を《実感》すること。

そして、上の4つの要素が《一切》であるかどうかを吟味すること。他に漏れたモノが無いかどうかを吟味すること。

そして、それが《一切》であると確信できたなら、《一切》を同時に《実感》すること。4つの要素の相互関係を《実感》すること。

これが、

《モノの世界》 → 五感 → 心 → 「心の作用」

という図式を《内からの視点》で《実感》すること、になります。

105 2010年10月18日 22:27 たけ(tk)

> 人間存在は不合理性のかたまりなのですね。

《自己》は《自己言及》であり、論理によって理解可能な世界には入りきらないモノである。

《自己》は認識の主体であり、認識することができないモノである。((認識されたモノは認識の客体であり、主体ではない))

> 不合理的存在である人間を、合理的存在である科学という〈外部者〉で把握できるのでしょうか?

《自己》と『科学』とでは《視点》の違いがある。
《自己》は、自分自身と自分の世界とを自分の身体の《内からの視点》で見る。
『科学』は、モノとモノの世界とを《外からの視点》で見る。科学はヒトを《外からの視点》で観察することはできる。しかし、『科学』が《内からの視点》で《自己》を観察することはしない。((《内からの視点》は科学的ではないと信じられている))

> そこには「人間そのもの」とは異なる像が描かれるだけではないでしょうか。

しかし、《内からの視点》と《外からの視点》とは相互に変換可能であると思われる。

(a)《内からの視点》と《外からの視点》とは、座標変換によって、相互に移行することができる。モノの《内からの視点》は、座標系の原点をモノの内部に置いたものだからである。
(b)《他者》の中に鏡を置く、という思考実験によって、《他者》の《内からの視点》で世界を見ることができる。
(c)鏡を通して《私》を見ることによって、つまり、《私》の《内からの視点》の中の《私》への《外からの視点》で《私》を見ることによって、《私》を《内からの視点》と《外からの視点》の両方の《視点》で同時に見ることができる。
(d)また、《私》は《共感》によって、《他者》の《内からの視点》を感じることができる。

《私》を《正見》するためには、《私》の《内からの視点》と《私》への《外からの視点》との間を自由自在に移すことができる《観自在の視点》が必要だと思う。
《他者》を《正見》するためには、《他者》の《内からの視点》と《他者》への《外からの視点》との間を自由自在に移すことができる《観自在の視点》が必要だと思う。


とはいえ、《正見》は『意味』の問題を解決しない。
科学の知見が我々に何らの『意味』ももたらさないのと同様に、
科学の《外からの視点》での知見を、座標変換などの方法によって、自己の《内からの視点》に変換することができたとしても、我々の世界や《私》が『意味』を持つようになるわけではない。
《正見》は『虚無』の《苦しみ》を解決しない。

『意味』は、あるモノではなく、あるべきモノであり、作り出すべきモノである。『意味』は《念》によって作り出すべきモノである。
『意味』は、《一切》への《観自在の視点》での《正見》と《正しい禅定》から生まれ出てくる《正念》によって作り出すのが望ましい。

−−−

104 2010年10月18日 09:30 あかまさん

 人間とは「合理的なもの」を求めたがるものですし(ユダヤ教だって不条理な現状を諒解するための神学的合理化を行なったわけですし)、科学的思考とはその合理性において、まさに人間の欲求を完全に満たすものかに思えます。

 ここに陥穽があります。
 人間存在は不合理性のかたまりなのですね。

 不合理的存在である人間を、合理的存在である科学という〈外部者〉で把握できるのでしょうか?
 そこには「人間そのもの」とは異なる像が描かれるだけではないでしょうか。

 自らの人間であることを感ずるためには、不合理を合理化することなく、人間が人間自身として、そのままを把握するしかありません。
 存在とは揺らがぬものであり、同時に永遠に定まらぬものでもあります。

−−−

103 2010年10月18日 01:21 たけ(tk)

>84 2010年10月11日 19:50 りょーこさん
>マーヤ・・・目覚めていないリアリティという意味で。

《モノの世界》 → 五感 → 心 → 「心の作用」

この《モノの世界》のなかにヒトたちがいて、
ヒトたちは勝手に『仮想現実』(マーヤ)を作り出して信じて、行動している。
具体的には、特定の紙切れに『貨幣価値』なるものがあると信じて、それをおカネとして使っている。
『国家』や『自分の会社』があると信じこんでいて、『自分』がその集団に帰属している信じ込んで、行動している。

まあ、それで、彼らの生活がうまく流れているという面もある。

《モノの世界》の一部分としての
《マーヤを信じて生きているヒトたちの世界》 → 五感 → 心 → 「心の作用」

という構図ができるという訳ですね。

−−−

102 2010年10月18日 00:57 たけ(tk)

>84 2010年10月11日 19:50 りょーこさん
>私には、ここにすべて、一切入っているように思われますが。。。
>マーヤ・・・目覚めていないリアリティという意味で。

考え途中ですが、

>眼と眼に見えるもの、
>耳と耳に聞こえるもの、
>鼻と鼻ににおうもの、
>舌と舌に味わわれるもの、
>身体と身体に接触されるもの、
>心と心の作用、
>というサーバッティでのブッダの「一切」

これは、次のような図式のようですね。

 《身体》の外部   《身体》の表面 《身体》の内部

眼に見えるもの→→→→→眼→→→+
耳に聞こえるもの→→→→耳→→→+
鼻ににおうもの→→→→→鼻→→→+
舌に味わわれるもの→→→舌→→→+
身体に接触されるもの→→身体→→+
                      ↓
                      心→→心の作用

この図式だと、「心」は現代の認知心理学脳科学での「統覚・連合」にあたりそうです(※1)。「統覚・連合」は五感によるモノの知覚から『輪郭』と『意味』を取り出す機能のようです。

簡単にすると

《モノの世界》 → 五感 → 心 → 「心の作用」

===

※1:現代の認知心理学脳科学での「統覚・連合」

http://ja.wikipedia.org/wiki/認知

認知は「統覚」と「連合」の二段階にわかれた処理である。
統覚は、風景などの知覚から形を取り出す働きであり、
その形が何であるのかを判断する働きが連合である。
認知の障害が失認であり、見えたり聞こえたりすることはできてもそれが何であるか理解できない(連合の障害と統覚の障害とでは症状には差異がある)。見たものが認知できない視覚失認のほか、相貌失認・手指失認など様々な症状があり得る。

http://ja.wikipedia.org/wiki/失認

統覚型視覚失認

要素的な一次視覚が保たれているにも関わらず、
その対象をひとつのまとまりとして把握できないので、
提示された物品が何であるのか言えない状態である。
形態の認知が障害されており、物品の模写ができず、類似した視覚刺激の異同を判定することもできない。
一酸化炭素中毒のようにびまん性で脳後部をおかす病変が有名であるが、
左半球の内側、腹側部、特に紡錘状回、海馬傍回後部が重視される。
物についての知識は保たれており、対象の名前を言われれば正しい定義を述べることはできる。

連合型視覚失認

要素的な一次視覚が保たれており、ひとつのまとまりとして把握はできるが、
過去において蓄えられた経験と結びつかないので提示した物品が何であるのかわからない場合を連合型視覚失認という。物品の模写も類似した視覚刺激の異同も判定できるが、物品の名前やその使用方法を示すことができない。
側頭後頭接合部の下部の両側性障害、後大脳動脈の脳血管障害で起こることが多い。責任病巣は統覚型視覚失認と同様であり左半球の内側、腹側部、特に紡錘状回、海馬傍回後部が重視され、統覚型との病変の違いは明らかではない。
対象の知識は保たれており、触覚や聴覚を通せば同定できること、対象の特徴的な動きをみると同定ができる。

* 統覚と連合とは、心理学的な機能的な違いはあるようだが、脳科学的には責任病巣は、統覚は「左半球の内側、腹側部、特に紡錘状回、海馬傍回後部」、連合は「左半球の内側、腹側部、特に紡錘状回、海馬傍回後部」なので、脳科学的にはほとんど区別できていない。

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