104 2010年10月18日 09:30 あかまさん

 人間とは「合理的なもの」を求めたがるものですし(ユダヤ教だって不条理な現状を諒解するための神学的合理化を行なったわけですし)、科学的思考とはその合理性において、まさに人間の欲求を完全に満たすものかに思えます。

 ここに陥穽があります。
 人間存在は不合理性のかたまりなのですね。

 不合理的存在である人間を、合理的存在である科学という〈外部者〉で把握できるのでしょうか?
 そこには「人間そのもの」とは異なる像が描かれるだけではないでしょうか。

 自らの人間であることを感ずるためには、不合理を合理化することなく、人間が人間自身として、そのままを把握するしかありません。
 存在とは揺らがぬものであり、同時に永遠に定まらぬものでもあります。

−−−