105 2010年10月18日 22:27 たけ(tk)

> 人間存在は不合理性のかたまりなのですね。

《自己》は《自己言及》であり、論理によって理解可能な世界には入りきらないモノである。

《自己》は認識の主体であり、認識することができないモノである。((認識されたモノは認識の客体であり、主体ではない))

> 不合理的存在である人間を、合理的存在である科学という〈外部者〉で把握できるのでしょうか?

《自己》と『科学』とでは《視点》の違いがある。
《自己》は、自分自身と自分の世界とを自分の身体の《内からの視点》で見る。
『科学』は、モノとモノの世界とを《外からの視点》で見る。科学はヒトを《外からの視点》で観察することはできる。しかし、『科学』が《内からの視点》で《自己》を観察することはしない。((《内からの視点》は科学的ではないと信じられている))

> そこには「人間そのもの」とは異なる像が描かれるだけではないでしょうか。

しかし、《内からの視点》と《外からの視点》とは相互に変換可能であると思われる。

(a)《内からの視点》と《外からの視点》とは、座標変換によって、相互に移行することができる。モノの《内からの視点》は、座標系の原点をモノの内部に置いたものだからである。
(b)《他者》の中に鏡を置く、という思考実験によって、《他者》の《内からの視点》で世界を見ることができる。
(c)鏡を通して《私》を見ることによって、つまり、《私》の《内からの視点》の中の《私》への《外からの視点》で《私》を見ることによって、《私》を《内からの視点》と《外からの視点》の両方の《視点》で同時に見ることができる。
(d)また、《私》は《共感》によって、《他者》の《内からの視点》を感じることができる。

《私》を《正見》するためには、《私》の《内からの視点》と《私》への《外からの視点》との間を自由自在に移すことができる《観自在の視点》が必要だと思う。
《他者》を《正見》するためには、《他者》の《内からの視点》と《他者》への《外からの視点》との間を自由自在に移すことができる《観自在の視点》が必要だと思う。


とはいえ、《正見》は『意味』の問題を解決しない。
科学の知見が我々に何らの『意味』ももたらさないのと同様に、
科学の《外からの視点》での知見を、座標変換などの方法によって、自己の《内からの視点》に変換することができたとしても、我々の世界や《私》が『意味』を持つようになるわけではない。
《正見》は『虚無』の《苦しみ》を解決しない。

『意味』は、あるモノではなく、あるべきモノであり、作り出すべきモノである。『意味』は《念》によって作り出すべきモノである。
『意味』は、《一切》への《観自在の視点》での《正見》と《正しい禅定》から生まれ出てくる《正念》によって作り出すのが望ましい。

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