社会問題とゴータマ・ブッダ

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25 2010年04月26日 23:43 たけ(tk)

19 2009年04月03日 14:55 つかちゃん
>我々は皆、自然の法則の一部でしかないということ、
>それを理解すること=智慧、空なのだと思ってます。

これは、そうだと思います。

20 2009年04月03日 23:38 フリクラさん
>>我々は皆、自然の法則の一部でしかないということ、
>>それを理解すること=智慧、空なのだと思ってます。
>それらは、先に出た道元的な考えに近く、ニヒリズム的に陥る自己満足の「悟り」を感じる人は多くいるだろうが、それが佛教というのであれば今日の社会に対する仏教思想の影響力は乏しく、佛教の存在価値は希薄になってしまうという危機を佛教関係者は親身に感じているところでしょう。

最近、正見経(サンマーディッティ・スッタ、http://www.nurs.or.jp/~academy/butten/shouken1.htm)に次のような文章を見つけて、ゴータマ・ブッダを見直しました。

「比丘達よ、滅について、正しく見ること。
比丘が、正しく認めるべき、三つの滅がある。
それでは、この三つの滅とは、如何なるものか。
第一の滅は、欲望を滅する、欲望の滅尽である。
第二の滅は、生存を滅する、生存の滅尽である。
第三の滅は、虚無を滅する、虚無の滅尽である。」

ゴータマ・ブッダは虚無の苦しみの滅尽も語っていたらしい。

物質世界や自分自身が「一切皆空」であると知れば、欲望や存在からの滅却は可能だろう。しかし、そのままでは虚無の苦しみが残る。
残った「虚無」も滅却する必要が出てくる。虚無の苦しみをシカと見届け(苦諦)、虚無の苦しみの結果と原因とを知り(集諦)、虚無からの脱却の方法を発見し(滅諦)、実践する必要がある。

虚無の苦しみを滅尽するためには、物質世界の苦集滅道と、自我の苦集滅道だけでなく、虚無の苦集滅道も意識しならが正見すること、正思すること、正語すること、正行すること・・・。が必要だとゴータマ・ブッダは語っていた。

>さてそこから先、佛教の可能性を求めていかなければ佛教は本当に形骸化していきます。
>現代科学による「智」では解決できぬ、個人や社会における問題をどう解決するかがこれからの佛教の試練かもしれません。

ゴータマ・ブッダに対する疑問の一つは、なぜ、彼は社会的な苦しみについて語らなかったのか、ということ。

一つの回答は、「彼は実践においては、社会に対するコミットを行っている」つまり、説法という形で人びとの苦しみに関与していた、ということ。

もう一つの回答は、彼の時代においては、政治は暴力的なモノであり、言論によってどうにかなるというモノではなかった。そのような歴史状況においては「もしわたしが《社会的な苦しみに関する法》を説いたとしても、他の人々がわたしを理解してくれなかったらそれはわたしにとって疲労であるだけだ。 それはわたしにとって苦悩であるだけだ」ということだ。つまり、彼の時代においては、見込みが無かったから、説かなかっただけだということ。

しかし、世は民主主義の時代であり、言論によって政治の流れを変えることも不可能ではない時代になった。

では、われわれはどのように《社会的な苦しみ》にコミットしていけばよいのか?

《社会的な苦しみ》であっても、《個人的な苦しみ》に関するゴータマ・ブッダの方法は有用であろう。
社会的な苦しみに対しても、「これは社会的な苦しみである」「これは社会的な苦しみの原因である」「この社会的な苦しみの原因はこれである」と考えるようにしてみよう。

そのように考えれば《社会的な苦しみ》も自然法則の帰結であることがわかる。《社会的な苦しみ》も空である。
しかし、これを因果の流れとして認知しながら、それにコミットしないのは虚無の苦しみである。

《私》の虚無の滅尽のために、《社会的な苦しみ》を正見せよ、《社会的な苦しみ》を正思せよ、正語せよ、正行せよ。
と、ゴータマ・ブッダは語っているように思われる。