2010年09月22日 00:25 たけ(tk)

35 2010年09月20日 23:52 りょーこ さま

>>覚者になりたかったら
>(24時間のうち意識のある間に見聞きししたモノ、思い浮かんだモノのすべてについて)
>「これは苦しみである」
>「この苦しみの原因はこれである」
>「これは苦しみの原因である」 と、唱えればよい。
>困難な道かもしれませんが

>☆は、はい(-"-)私には、「苦オンリーの認識」は困難かも・・・。つい先ほど、お風呂にはいりました折「おお、極楽!」と、くつろいでしまいました(-"-)

お風呂の極楽気分に執着すると、のぼせてぶっ倒れちゃう苦しみの原因になるのだ。
また、お風呂の極楽気分に執着してしまうと、事情があってお風呂に入れない時期があると、いらいらしてくるという苦しみが生じる。

でも、
りょーこさんは極楽気分に執着しなかったので、ほどほどの気分で「湯上がり、すっきり!」となったんですよね。
それで、よろしいんじゃないでしょうか。(たけ(tk)も風呂大好きです)。

一切皆苦」とはいいますが、
ブッダも、飯喰って、糞して、寝て、風呂に入っていたはずなので、
健康に生きるために必要な行動から生じる《快》を否定していたわけではない。
生きていれば《快》も生じるし《不快》も生じる。

「これは苦しみの原因である」 と唱えることによってなにが分かるかというと・・。
《快》が生じる原因は身体とお湯との接触や感覚や身体的な変化であることが分かる。
《快》によって《苦》が生じる可能性があることも分かる。
その本質が身体的なモノであって《我》にあらざるモノであること、等も分かる。
そのようなことを分かったうえで、「お風呂は極楽」という《快》が生じることを楽しめばよろしいのだと思います。
正見(正しい認識)のもとで正命(正しい生活)をするのが、よろしいのだそうです。

なおブッダは「沐浴をすませた者」になるのが良いことだと言っているようです。
風呂上がりの「すっきり感」が《覚者》の感覚に似ているのかもしれません。

http://www.geocities.jp/koogakan/suttanipata.html
スッタニパータ
ブッダのことば」岩波文庫 中村 元 訳

518 サビヤがいった、「何を得た人を<バラモン>と呼ぶのですか? 何によって<道の人>と呼ぶのですか? どうして<沐浴をすませた者>と呼ぶのですか? どうして<竜>と呼ぶのですか? 先生! おたずねしますが、わたくしに説明してください。」

519 師が答えた、「サビヤよ。一切の悪を斥け、汚れなく、よく心をしずめ持って、みずから安立し、輪廻を超えて完全な者となり、こだわることのない人、──このような人は<バラモン>と呼ばれる。

520 安らぎに帰して、善悪を捨て去り、塵を離れ、この世とかの世とを知り、生と死とを超越した人、──このような人がきさにその故に<道の人>と呼ばれる。

521 全世界のうちで内面的にも外面的にも一切の罪悪を洗い落とし、時間に支配される神々と人間とのうちにありながら妄想分別におもむかない人、──かれを(沐浴をすませた者)と呼ぶ。

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