72 2010年10月09日 23:02 たけ(tk)
> 悟りそのものはたいしたことではありません。
そうでもない。たしかに、空の悟りに限れば、たいしたことはない。
しかし、空の悟りだけでは本物ではない。
空の悟りだけでは、虚無が生じる。
虚無は苦しみであり、虚無の苦しみの原因を解消しなければならない。
それが(↓)に繋がる。
> 悟りを人生の真実にできるかは別問題ですけどね。
空の悟りを得た後は、虚無感の苦しみを解消しなければならない(※1)。
《他者》とはどういうモノであるかを《正見》し、
《私》の《身体》と《他者》との《繋がり》を《正見》し、
《私》の《身体》が《他者》との《繋がり》においてどうあるべきかを《正念》し、《正精進》しなければならない。
> これは人間にとっての論理とは何かという、根本問題を考えることも含みます。
> 究極的な場所は論理では解きがたい。けれどそこまで進むのは論理に拠らねばならない。
> 人間にとっての論理性というものの本質を、自らの身をもって体験するしかありません。
論理についてはその通りだと思います(※2)。
ただ、それしかないというわけではなく、そういう方法もある、ということかもしれません。
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※1:空の悟りを得た後は、虚無感の苦しみを解消しなければならない
正見経(サンマーディッティ・スッタ、http://www.nurs.or.jp/~academy/butten/shouken1.htm)
「比丘達よ、滅について、正しく見ること。
比丘が、正しく認めるべき、三つの滅がある。
それでは、この三つの滅とは、如何なるものか。
第一の滅は、欲望を滅する、欲望の滅尽である。
第二の滅は、生存を滅する、生存の滅尽である。
第三の滅は、虚無を滅する、虚無の滅尽である。」
※2:論理の限界について
『論理哲学論考』5・631:思考し表象する主体は(『論理空間』の中には)存在しない。・・この本の中で論ずることができない唯一のもの、それが主体なのである。
(http://tractatus-online.appspot.com/Tractatus/jp/index.html / 岩波文庫、p.116)
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