《ベーシック・インカム》

たけ(tk)は《ベーシック・インカム》が良いと思っているので、愚樵さんの個人通貨の論(http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-215.html)を通して考えてみたい。

原始社会には貨幣などといったものは存在しませんでした。人類は血のつながりを軸とした共同体を営んでいたでしょうが、個々の人間の生存に必要な資源の分配を共同体内で分配するのに貨幣は用いない。このことは現在でも同じで、家族といった共同体のなかでの資源分配を市場原理に委ねるといった人は、まずいないでしょう。共同体内部での分配原則は「必要なものを必要な人へ」で、そもそも貨幣は必要としない。この原則は人類誕生以来、不変のものだと考えてよいでしょう。

共同体内部での分配原則は「必要なものを必要な人へ」である、というのが、たけ(tk)の考える《ベーシック・インカム》の基本的な発想でもある。

共同体内部で営まれる「必要なものを必要な人へ」経済は、必要性基盤の経済なのです。

ただこの経済は、貨幣を必要としない贈与経済でもあります。合理性ではなくて、「合情性」を基盤とする経済だと言ってもいいでしょう。「合情性」は合理性に比べて、機能する範囲が非常に狭い。経済を成立させる需要の基盤は欲望基盤よりも確固としたものがあるにもかかわらず、「合情性」であるがゆえに「大きな社会」をつくる基盤とはなり得ませんでした。

「共同体内部で営まれる「必要なものを必要な人へ」経済は・・貨幣を必要としない贈与経済でもあります」という点について疑問がある。《ベーシック・インカム》は貨幣経済を前提として、その基盤の上で「必要なものを必要な人へ」の経済を再生する仕組みであるといえる。

原始社会における非貨幣経済は、単細胞生物の中での浸透圧による栄養循環の仕組みであったと考えることができる。自然な法則に基づいて、何も装置を必要とせずに栄養循環がなされていた。ただし、ごく小さな領域でしかその栄養循環はうまく機能しない。

それに対して、貨幣経済は、血管による循環であると考えることができる。血管によって遠くまで栄養を送ることができるようになったのである。

しかし、この貨幣的分配は、富の集中をもたらすものであった。栄養循環で言えば、主要器官に血液が集中して鬱血状態になり、末端では貧血状態〜壊死にいたるような血液の格差をもたらし、循環そのものの機能が低下し、生物体自体の生存にも危機をもたらす。

それに対する生き物の解決方法は、心臓と動脈によって、強制的に末端にまで血液を分配する、という仕組みである。

ベーシック・インカム》というのは、貨幣経済を前提とした、動脈システムであると考えている。

人間社会が末端にいたるまで栄養を摂取し、全体としての共同体が健康でいるために不可欠な仕組みであろう。

((現在の再分配制度、生活保護制度、などは、血液を送るかどうかを認定する小器官が選別して栄養をおくる仕組みになっている。そんな、余分な器官は要らぬ。血液は全身に無条件に送ってしまった方が無駄のないシステムになる))。

以上のように見てくれば、〔欲望−暴力〕基盤の上ではありえない個人通貨の可能性が見えてきます。

たけ(tk)の考える《ベーシック・インカム》は、〔欲望−暴力〕基盤の上で「必要なものを必要な人へ」経済を実現するものである。心臓に該当する強権的暴力装置によって富を回収し、動脈を通して全身に分配する仕組みである。

人々は自らの欲求の質を高め、満足させるように生きているし、そのように生きることは善いことである、と、たけ(tk)は考えている。
人々の欲望・欲求を満足させるのが、共同体の善である。共同体の全体の基本的機能に責任を持つ器官は、人々が自らの欲求の質を高め、満足させるように生きることを可能にするように設計されていなかければならない。

ベーシック・インカム》には再分配を行う暴力的権力が必要である。